菅江真澄略歴 

菅江真澄(すがえ ますみ)

1754(宝暦4)年に三河国(現愛知県豊橋市付近) に生まれる。

 本名は白井秀雄(幼少期英二)。後年菅江真澄と称した。
江戸時代の紀行家で、1783(天明3)年から信濃、越後、出羽、津軽、蝦夷地(松前)まで旅をした。

 
30歳で故郷を出て主に蝦夷・東北地方の名所旧跡を訪ね、47年の間に数多くの日記や地誌・図絵などを残し、当時の生活習慣を知る貴重な民俗資料となった。
1811(文化8)年より秋田久保田城下に住み、秋田藩の地誌の編纂をしたが、1829(文政12)年、地誌調査中に旅先で病み、角館(現秋田県仙北市)の鈴木家にて、76歳で亡くなった。

 真澄没後、残された著書は分散したが、明治になって旧藩士真崎勇助によって収集され、のち(財)栗盛教育団から寄贈され、現在は真崎文庫資料として本館所蔵となり、1958(昭和33)年には、「菅江真澄著作」46点として秋田県指定文化財に指定された。
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 図絵集 
 
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資料 分類 資料名 番号 解説
図絵集 新古祝甕品類之図 M5-13 真澄が書名に用いている「祝甕」は、清浄な神饌具を意味する「斎甕」である。本書に集録した器が、かつては「斎甕」あるいはその同等品として人々から大事に使われていたであろうことを念頭に置いている。
三十七図に集録された四十二個の器は、その新古の品類(種類)である。
図絵集 菅江真澄翁画  M5-15 本資料の内容は三分に分かれる。冒頭二丁四図は「花輪ノ庄」の図絵で、《筆のしがらみ》 「上津ノ花」の内容に相当する。次の五丁には埋没家屋と出土品が描かれている。これは、平田篤胤著『皇国度制考』上巻の絵と酷似することから、文化十四年六月に秋田郡脇神村小勝田(北秋田市)で現れた埋没家屋で、真澄の調査が岡見順平によって篤胤に伝えられたものと考えられている。後部の二丁四図は、いずれも《新古祝甕品類之図》にある図と同じである。
図絵集 百臼之図 M5-17 『菅江真澄全集』では、国立国会図書館蔵『百臼之図』の異文一と位置づけられている。全三十一図のうち十七図が国会図書館蔵本と同じであるが、本資料では、臼唄と臼にちなむ伝承を古書などから引用している。また、臼を搗く人物が描かれていることも特徴である。
図絵集 母模宇須乃迦多 M5-18 『菅江真澄全集』では、国立国会図書館蔵『百臼之図』の異文二と位置づけられている。全六図は臼を描いた草稿と考えられ、料紙がまちまちである。その他に後人によって綴り合わせられたと考えられる、《しののはぐさ》の草稿、随筆の表紙や断片などの三丁がある。
図絵集 雪能遠呂智泥 M5-19 全ての図絵が《勝地臨毫秋田郡》と一致すること、表紙に「臨写粉本」とあることなどから、同書の草稿と考えられる。全十七図のうち、十図が《秋田郡四》に、二図が《秋田郡一》に、五図が《秋田郡二》に一致する。
《勝地臨毫秋田郡》の成立が文化十年と考えられ、本書の第一丁に「十月廿七日」とあることから、本書は文化九年に描かれたものと考えられる。
図絵集 婢呂綿之具 M5-28 「ひろめ」とは昆布のことで、昆布刈り漁とその漁具を詳しく描いている。『菅江真澄全集』では全二十五図とするが、全集でいう第二十四図と第二十五図は、図絵を描いた料紙を裏返しにして裏表紙にしたものである。第一図と第二図を除くと、すべて清書本《ひろめかり》にあり、その意味でも本資料は《ひろめかり》の稿本に位置づけられる。
図絵集 粉本稿 M5-36 書名にある「粉本」は、画の稿本を表す言葉である。初期の旅の写生帖で、天明六年までの見聞を内容とする。美濃四図、信濃十図、越後二図、それに出羽と陸奥を合わせて全四十二図からなり、珍しい習俗や民具、景勝地などを描いている。
 随筆 
 
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資料 分類 資料名 番号 解説
随筆 さくらかり M5-12 真澄が旅の中で見聞した桜についてまとめた著作である。上巻は未発見で、下巻には四十五項目の桜の記事がある。口絵部分に図絵があり、現在の秋田市ハ橋周辺に咲き誇っていた桜を描いている。
随筆 布伝能麻迩万珥 M5-16-1 長年の旅の見聞に基づき、読書によって触発された考察を随想のかたちで述べている全九巻の考証随筆。二九〇項目の内容は、人文と自然の広範な分野に及び、真澄の興味の広さと深さを知ることができる。本資料は真崎勇助による五冊本の写本である。自筆本は、第ハ巻の現存(岡崎市美術博物館蔵)が知られるだけである。
随筆 布伝能麻迩万珥 M5-16-2
随筆 布伝能麻迩万珥 M5-16-3
随筆 布伝能麻迩万珥 M5-16-4
随筆 布伝能麻迩万珥 M5-16-5
随筆 花のしぬのめ M5-22 真澄が久保田川反の能登屋山本氏の家を早朝に出て、久保田城東側にあたる手形方面の桜花を見物して帰った、わずか数刻のことを記した文章で、歌を交えた雅文調となっている。
手形の桜のよさは、《久保田の落ち穂》「やまのての花」にも再度書いている。山本氏に宿っていたことから、文化十二年三月中旬の文と考えられている。
随筆 かたゐ袋 M5-41 「かたゐ袋」は、乞食の持つ雑嚢のことを指し、雑嚢に詰め込むかのように、あらゆる見聞を拾い集めていることから名付けられた書名である。四丁の雑葉を挟んで、内容は前編と後編に分かれ、前編は三河・尾張・信濃・出羽・陸奥などで聞いた話、後編はアイヌに聞する見聞を内容としている。
随筆 しののはぐさ M5-44 文化八年以前から書きためた随筆をまとめたもので、真澄の本格的な考証随筆の最初のものと考えられている。編纂を文化八年以降とするのは、「明徳館蔵」と刷られた罫紙を使用しているからで、真澄が藩校明徳館と関係をもった時期以降と推測されるからである。全三十四編からなり、書名は、冒頭第一編の題に因んだものである。
随筆 花の真寒泉 M5-45 真澄が見聞した各地の清水について、二十項目を挙げている。序文には、《さくらがり》を編んだのに続いて《花の真寒水》をまとめたとある。二十項目中十六項目は、秋田にある清水を取りあげている。
 雑纂 
 
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雑纂 錦木 M5-8 全五十九丁のうち、冒頭四分の一は、盛岡藩領鹿角郡毛馬内付近をめぐった文化四年夏の日記の断片、錦木塚に関する他人の詩歌六編、錦木塚周辺の図絵からなっている。また、後部四分の三は、主に津軽地方を描いた図絵からなっている。
雑纂 風野塵泥 M5-10 伊藤東涯著『?軒小録』(随筆)から四項目の書写、『浅利記(浅利軍記)』の書写のほか、随筆の断片と考えられる文などが見られる。
印記から明徳館献納本であったことが知られる
雑纂 椎の葉 M5-14 《世々のふる跡》《世々のふる塚》(いずれも未完成本)という真澄の項目別著作の草稿、平鹿郡の地誌の草稿、他書や版本等からの抜書など、さまざまな内容や料紙が綴り合わされた雑纂である。文政七年の年紀が二ヵ所にある。真澄自らが装丁した時に付けられた目次が、第一丁にある。
雑纂 房住山昔物語 M5-21 かつて修験寺院として栄えた房住山(三種町上岩川と能代市ニツ井町の境にある山、標高四〇九メートル)にまつわる二つの古書の書写本である。はじめにそれぞれの古書に出てくる人名と地名を書き出した上で、「房住山昔物語」と「梵字宇山興立ノ記」を書き写している。
雑纂 陸奥国毛布郡一事 M5-23 盛岡藩領であった鹿角郡が、がっては毛布郡と表記されたことに関わり、『玉勝間』『続日本紀』『倭訓栞』などから関係した記事を写すほか、地元にあった「錦木山観音寺由来記」(《けふのせばのの》にも記載)を写している。さまざまな料紙を綴じ合わせた雑纂である。
雑纂 風能おち葉 M5-29 地誌編纂のための覚書や他書からの技書を綴り合わせた雑纂。
中でも、秋日郡に関する覚書が目立つのが注目される。
雑纂 迦是能淤地婆 M5-30 真澄の随筆《筆のまにまに》の草稿や地誌の覚書などが綴られている。また、『擁書漫筆』(随筆、高田与清著)、『玉勝間』(随筆、本居宣長著)、『倭訓栞』(辞書、谷川士清著)など多くの書物からの技書が綴られている。これらは随筆の素材としての覚書であったと考えられる。
雑纂 風能おち葉 M5-31 真澄が古跡についてまとめようとした《世々のふる跡》(未完成本)の草稿が七丁綴られている。また説話集、歴史書、歴史注釈書、歌集、辞書などさまざまな分野の書物からの抜書きがある。
雑纂 雪能夜万踰え M5-32 十二月十日、五条目の加賀谷彦兵衛家にいた真澄が、上小阿仁方面を目指して旅した日記である。山越えをする前に文章は後欠となっているが、図絵には雪に埋もれた中茂(上小阿仁村)があることから、雪中の山越えを行なったことがわかる。また、大川(五城目町)に関する図絵もあるが、これに相当する記述はない。文政三年の日記と考えられる。
雑纂 都由野塵束 M5-34 『和泉名所図会』や『羽陰史略』など、さまざまな資料からの書写を綴じ合わせたものである。内容から、地誌《月の出羽路仙北郡》に関わる資料として書写したものと考えられる。
雑纂 筆能志可良美 M5-37 「千代の色」「槻のわか葉」「花のちり塚」「上津ノ花」「氷魚村君」という五篇の雑葉類・草稿を綴り合わせている。「千代の色」は文政六年一月〜三月の日記で、《風の落葉》二巻(県公文書館蔵)の一部とともに、『菅江真澄全集』では《笹ノ屋日記》として翻刻されている。「槻のわか葉」は文政五年四月の日記。「花のちり塚」は文政五年春から夏頃の日記。「上津ノ花」は文政四年三月の日記とされ、図絵は《菅江真澄翁画》にある。「氷魚村君」は文政五年春に東本願寺に奉納したものの草稿と、真澄自身が記している。
雑纂 高志栞 M5-40 冊子の前半は、久保田の本誓寺住職是観が実家のある越後に帰った時の「高志路ノ日記」や、万元上人という人の「加茂日記」の書写からなり、後半は、越後に関する事項が項目立てて書かれている。
雑纂 混雑当座右日鈔 M5-42 覚書を寄せ集めた一冊で、断簡を添付したり、反故紙を裏返して使ったりしている。覚書のうちの二つが、随筆《久保田の落ち穂》に取り入れられている。また、第六丁表に「左仙北一事」と書かれた紙片が見出しのように貼られていることから、地誌のための覚書としても使われたと考えられる。
日記 
 
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資料 分類 資料名 番号 解説
日記 齶田濃刈寝 M5-2 天明四年九月十日〜十二月末の日記。越後路から庄内(山形県)に入って羽黒山を参詣した後、初めて現在の秋田県域に入った時の日記である。歌枕・象潟を見物した後、本荘、矢島、伏見から西馬音内(羽後町)に至り、柳田(湯沢市)で冬を過ごすことになった。真澄にとって北国で過ごす初めての冬となった。
日記 小野のふるさと M5-3 天明五年一月〜四月末の日記。北国での初めての正月を柳田(湯沢市)で迎え、湯沢近辺の正月習俗をさかんに書き留めている。四月に入ってからは、小野小町の旧蹟を訪ね歩いていくつもの伝承を記し、また、院内銀山にも立ち寄って開山に関する歴史を記している。
日記 楚堵賀浜風 M5-4 天明五年八月三日〜二十五日の日記。真澄は、弘前藩領の西海岸から青森に向けて北上した。真澄の目的は蝦夷島への渡海にあった。弘前城下では歌会に出席するなどしたものの、在所では飢饉の惨状を見聞している。結局、思い通りに渡海することができずに、善知鳥神社(青森市)での神託に従って三年待つことにし、矢立峠を経て再び秋田藩領に入り、大館を通って進路を盛岡藩領鹿角に向けた。
日記 けふのせばのの M5-5 天明五年八月二十六日〜十月一日の日記。青森から引き返して盛岡藩領に入った真澄は、錦木塚・末の松山の歌枕の地を見るなどして、沼宮内を通って盛岡に入った。北上川の船橋を渡り、その後、花巻の医者で俳人の伊藤修家に宿る。そこで火事に遭遇するエピソードを書き留めるなどしてさらに南下し、仙台藩領の江刺郡に至った。
日記 淤遇濃冬隠 M5-6 寛政六年十月〜十二月(閏十一月を含む)四ヶ月間の日記であるが、日付がまばらになっているために記述量は多くない。田名部(青森県むつ市)に滞在していた真澄は、一旦は同地を出発しようとしたが、知友たちに止められて田名部滞在を決意したと、序文に記している。知友の中でも特に菊組成章とは、歌の贈答をしたり、日記を見せたりしながら交流を深めている。
日記 智誌磨濃胆岨春 M5-7-1 寛政四年一月〜五月の二冊本の日記である。全編にわたる歌会や歌の贈答の記事から、歌題の出し方や歌会の参加者などを知ることができる。当地のうた人たちとの交流から真澄自身も歌の技量を磨いていったことが知られ、本書からは七〇〇首近い真澄の詠歌を拾い出すことができる。歌会の中心的人物は、藩主松前道広の継母で、蝸崎波響(のちに家老、画家)の実母である松前文子であった。
日記 智誌磨濃胆岨夏 M5-7-2
日記 かすむ月星 M5-9 『菅江真澄全集』では、明徳館献納本《かすむ月星》の異文と位置づけられている。日記に書かれた日付(期間)は一致し、文の相違も比較的少ない。しかし、序文と三十四回にも及ぶ図絵を一切欠いているのが大きな相違点である。
日記 雪乃胆沢辺 M5-24 山ノ目(一関市山目)の大槻清雄家を中心にした天明六年十月〜十二月初句(閏十月を含む)の日記。平泉・中尊寺で営まれた秀衡六百年忌の祭事に出かけている。近辺を巡遊しながらも、冬の季節を迎えるようすを「きのふにひとし」「きのふのごとし」などの修飾のない文章で綴っている。
日記 かすむこ満賀多 M5-38 天明六年一月〜二月の日記。正月を徳岡(岩手県奥州市胆沢区)の村上良知家で迎え、近辺の正月行事を詳しく書き記している。また一月二十日に行われた平泉・常行堂の摩多羅神祭を見た。また、六日入(奥州市前沢区)の鈴木常雄家にも行き来している。一月二十八日、毛越寺の衆僧に託して故郷三河に手紙を出している。
日記 はしわのわか葉 M5-39 天明六年四月〜六月の夏の日記。大原(一関市大東町)の芳賀慶明家に宿りながら周辺を探訪し、曹洞宗の古刹正法寺や蘇民祭で知られる黒石寺に詣でた後、再び中尊寺に行き白山神社の祭礼を見ている。さらに、山ノ目(一関市)の大槻靖雄家に行き、近くの式内社・配志和神社に詣でた。書名はこの神社に由来する。四月二十七日に植田義方からの返書が届いている。
日記 秋田のかりね M5-43 内容が《秋田のかりね》の天明四年九月十日〜二十二日の日記であることから、『管江真澄全集』.では《秋田のかりね》の異文として位置づけられている。半紙本の大きさであること、本文が十一行で書かれていることなど、他の日記との相違が認められる。印記から、明徳館献納本であったが、佐竹家には移管されなかったことが知られる。
 書写本 
 
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資料 分類 資料名 番号 解説
書写本 続記、日本後記 M5-11 『続日本紀』と『日本後紀』から、陸奥国と出羽国に関する記録を書き抜いている。書写年代は不明であるが、随筆や地誌での引用のための手控えとして書き写されたものと考えられる。
書写本 芦偸曲記 M5-26 「あしのまろやの記」は、梅津敬忠の別荘ができた時、梅津利忠が書いたもので、真澄は《筆の山口》に引用している。本書の表紙見返しには、石井忠行・真崎勇助による書き入れ紙が貼られており、それによると「偸閑亭ノ記」は梁田友斎、「曲肱庵ノ記」は佃養軒という人物が書いたとしている。三編の文を真澄が書写したもので、書名は三編の頭文字を合わせているため、「ろとうきょっき」と読めるだろう。
書写本 江源武鑑 M5-27 佐々木氏郷の著作とされる『江源武鑑』の書写本。『江源武鑑』は、近江守護佐々木六角氏の末期四代の時代を日記形式にまとめた著作(雑史)であるが、現在では偽作と評価されている。真澄はこの中から、神道関係や不思議な出来事などを中心として、興味を引かれた事項について書き写している。
書写本 飛鳥山碑銘乾隆
帝御纂乃集中
―鹿角之記
M5-33 書写本に位置づけられているが、真澄の筆跡と認められるのは、題簽・目次・朱筆部分だけである。飛鳥山碑(東京都北区に現存)の碑銘を津軽の斎藤規宏が謄写した一編と、清の乾隆帝が編纂した書物の中から「鹿角記(ロクカクノキ)」という鹿の角に関する記述を、松前の佐々木一貫が謄写した一編を、真澄が目次を付けて綴り合わせたものである。
 和歌集 
 
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資料 分類 資料名 番号 解説
和歌集 道乃夏くさ M5-20 文化十四年の夏、是観・公教・真澄の三人で詠み合った歌の集録である。この中で真澄は、二十五言の歌を詠んでいる。是観は浄土真宗本誓寺の十三世住職で、『和訓考』の著作でも知られる。公教は浄土真宗西勝寺の僧(世代不明)で、玉川遠州流の茶人・歌人としても著名な人物であった。本誓寺と西勝寺は、ともに秋田市旭北寺町に現存する。
 地誌 
 
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資料 分類 資料名 番号 解説
地誌 仙北郡強首邑 M5-25 「秋田叢書」編纂時の昭和六年当時、平鹿郡植田村の旧家に《月の出羽路仙北郡》の草稿本全三十三巻があったが、そのうち「巻二」と「巻三」の二巻だけが欠本になっていた。本書は、その「巻三」にあたり、清書時には《月の出羽路仙北郡》の第二巻に入れられた。清書本と比べると、図絵の彩色は簡単になされ、記述も細部にわたって相違が見られる。
地誌 仙北郡淀川邑 M5-35 「秋田叢書」編纂時の昭和六年当時、平鹿郡植田村の旧家に《月の出羽路仙北郡》の草稿本全三十三巻があったが、そのうち「巻二」と「巻三」の二巻だけが欠本になっていた。本書は、その「巻二」にあたり、清書時には《月の出羽路仙北郡》の第一巻に入れられた。
 
 
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